アズールがジェイドを緩やかに洗脳する話。執着と愛着。
仄暗い雰囲気かつ終盤に少し性描写あり。
清涼な朝の空気を吸い込んで、朝日を反射した硝子をつつく。一枚のそれを隔てた先で生きるお気に入りの草花に、目一杯の愛を込めた視線を送っていると、背後でがさがさと布擦れの音がした。振り向くまでもなく、音の正体は「うげえ」と声を上げる。
「まだそれ見てんのぉ……昨日の夜からやってんじゃん」
「違いますよ。フロイドが眠った後に一度離れて、フロイドが起きる前に始めたんです」
「どーでもいい……」
言葉通りの声を上げるフロイドにくすりと笑うと、不機嫌な鳴き声をあげながら着替え始めた。
もう一度、薄青色に光る硝子の表面を撫でる。すると、指先にビリっと刺す感触がして、反射的に手を引っ込めた。その拍子に机上のシャーレが床に落ち、派手な音を立てて割れてしまう。
「何してんの、ジェイド……」
「すみません。ちょっと静電気が」
「もー……どーせ、ちゃんと寝てないんでしょ。オレ手伝わねーから」
自業自得、と吐き捨ててフロイドは部屋を出て行く。どうも昨晩、熱中し過ぎて構えなかったのが不機嫌に繋がっているらしい。分析しながら苦笑しつつ、さっさと薄い硝子片を処理した。
その後、机に零してしまった薬品を拭き取ろうと布巾を手に取った時だった。ぐらりと眩暈がして、机に手をつき体を支える。目が回る。先程のフロイドの言葉を思い出す。寝不足だろうか。再び指先に痛みが走って、目を遣れば血が出ていた。机上に残っていた硝子片が刺さっている。
なんと不注意な日だ、と独り言ちると同時に腕の力が抜けて、膝をぶつける痛覚と共に意識を失った。
***
暖かな陽気が体中を包んでいる。うすぼんやりと開けた目には、海色の天井が映り込んでいた。感じる温度と視覚情報の相違に、少し寝惚けているジェイドは夢かと思う。体がうまく動かせないのも、頭があまり働かないのも、その思考を手伝った。
「目が覚めました?」
再び微睡に落ちようとした時、近くから聞き慣れた声がして、気だるくも首を動かす。制服を着用したアズールが、珊瑚の椅子に座り、体を捻ってジェイドの方を向いていた。薄青色の硝子が光に反射している。それが今朝の光景を想起させて、自分の身に起きた事態を思い出す。
ちりっと傷んだ指先を見れば、絆創膏が巻かれている。夢見心地は飛んでいった。
「アズール、僕は……」
「今朝、あなたに用があって部屋に寄ったんですよ。そうしたら床に倒れていたので、取り敢えず僕の部屋に運んでおきました」
少しずつ活動を始めた頭が、現在地を把握する。道理で広いベッドだ。寝心地も随分と良い。
「それはありがとうございます。ご迷惑をお掛けしたようですね」
「まあ。どうせ、夜通しテラリウムでもしていたんでしょう」
「そういう訳ではないのですが……」
兄弟と同じ事を言うアズールについ笑う。怪訝な目で見られ、すみません、と言いながら口元を隠した。本当に違うのだが、どうも二人は信じていないようだった。仕方ない奴だと呆れた顔をされてしまう。
「今だって寝惚けているじゃありませんか」
「え? いえ、先程までは確かに夢かと思っていましたが、今は目覚めていますよ」
「……本当ですか?」
静かに椅子から立ち上がったアズールがゆったりとした足取りで近寄ってくる。黙って目で追っていると、ベッドサイドに手を付いて、横たわるジェイドを見下ろした。
暫し、じ、と見つめられる。目の奥まで貫く様な視線に、居心地が悪くなる。視線を外そうとしたが、体が上手く動かなかった。硝子の向こう側に閉じ込められた青色から目が離せない。
「なるほど。確かに、そのようですね」
青色が細められると、途端に体の力が抜けた。いつの間にか緊張していたらしい。内心、首を傾げる。この見知った幼馴染相手に、緊張なんてした事はないのに。
思考に沈んで黙っていると、アズールはジェイドの脚と寄り添うような距離に腰掛けた。思わぬ体温に、驚きが顔に出る。
「どうしました? そんなに驚いた顔をして」
明らかに普段通りではない行動だった。しかし、アズールは奇妙な程に普通の顔をしている。
ぎしりとスプリングの軋む音がやけに鼓膜を揺らす。顔の真横に腕を置かれる。彼の整った顔が近付いて、避けようとした時、彼の体温に触れた脚に電流に似た痛みが走った。
「痛、……?」
痛覚と共に足元がぐらつくような不安感に襲われた。手を伸ばして脚を擦る。痛みは無かった。尚も不安が消えずに擦っていると、その手の上へアズールの薄い手が重ねられた。
「大丈夫ですか? 寝不足で不安定になっているのでは?」
眠っていたジェイドよりも少し冷たい手に撫で擦られ、不安を訴えていた胸が静まる。悔しい事に、どうも普段通りに隣接した体温に安心してしまったらしい。一つ溜息をついて、それからアズールを見上げた。
「そうかもしれません。少し、休ませて頂いてもよろしいですか?」
「ええ、いいですよ。ここの方が落ち着くでしょう」
「あまり落ち着きはしませんが、寝心地は良いですね」
手を何度も握られながら、薄れていく何かへの恐怖心に眠気を誘われる。ふわふわした寝具が全身を捕らえる様に包む。優しく髪を梳かれる感触に筋肉が弛緩するのが分かり、抵抗せず微睡に身を任せた。
結局、その日は朝までアズールの部屋で過ごしてしまったらしく、電子音によって起こされると彼の隣で目を覚ました。ジェイドより少し早く起きていたアズールは、何故かジェイドを起こさず観察していた。
寝起きで働きの悪い頭のまま、絡みつく視線を避けようと手を伸ばすと、瞼に触れた途端にまたあの電流が走った。痛みで一気に覚醒し、ベッドの上で素早くアズールから距離を置く。
「何を逃げてるんですか」
「アズール、あなた帯電してますよ」
「はあ? してませんよ。まだ寝惚けてるのか」
壁際までずり下がったジェイドを追い掛けたアズールは、痛む手を庇うように丸まったジェイドの肩に手を付く。そのまま壁に押し付けて目線を合わせた。
「……何でしょうか」
「何って、いつものですよ。ほら、さっさと目を閉じて下さい」
「いつもの……?」
疑問符を口に出せば、強く肩を握られた。普通に痛い。痛みを逃がそうと身を捩っていると、突然に思い出した。そうだ、目覚めて一番にしているあれの話だろう。
習慣を失念していたなんて、やはり寝惚けていたのかもしれない。言われるままに目を閉じる。するとごくりと何か飲み込む音が響いて、不思議に思っていると、後頭部に手が添えられた。そのまま引き寄せられて、唇に熱が触れる。それは一瞬で、小さな水音と共にすぐ離れていった。そこで目を開いて、いつものように言う。
「おはようございます、アズール」
「はい、おはようございます。ジェイド」
手が離れて解放される。満足気にベッドを降りる背中を見ながら、未だ痛む手を擦り、ジェイドも起きる事にした。
二人で部屋を出ると、すぐにばたばたと騒々しい足音が迫る。揃って視線をそちらへ向ければ、駆け寄ってくるフロイドの姿があった。
「アズール! ジェイド知らね……って、いんじゃん」
「おはようございます、フロイド」
ジェイドの姿を認めた途端に肩から力を抜いて、だらりと腕を下げた。脱力しながら「おはよ」と返すフロイドは、すっかり機嫌が変わっている。
「ふふ。何か変わった事でもありましたか?」
「いや、今まさに目の前にあんだけど?」
「……?」
「そうですか? いつも通りだと思いますけどね」
じとりと二人を見遣るフロイドに首を傾げていると、代わりにアズールが返答する。は、と気の抜けた声を発したかと思えば、怪訝な目付きになってアズールを見る。相変わらず忙しの無い情緒だ。
「アズール、何かした?」
「いえ、何も。ただ……あまり干渉されると、何かしてしまうかもしれませんねぇ」
「……いーけど、後でちゃんと返してよぉ」
なぜか機嫌の良いアズールとの応酬に、フロイドは苦虫を嚙み潰したような顔をしている。話の見えない現状に少しの不満を覚えて、疑問を告げるべく口を開こうとした。するとアズールが振り向いて、動きを止めたジェイドの手を取った。
「さあ、早く行きますよ。遅刻してしまう」
「……ああ。そうですね。行きましょう、フロイド」
一瞬だけその手を払おうとして、思い直す。いつもの事だというのに、何を動揺しているのだろう。気を取り直してフロイドに声を掛ければ、先以上に表情を崩して「あー」とひりついたような声を上げた。
「後でどーなっても、オレ、知らねーから」
やりたくない事が目の前に差し出された時の顔をしている。そう思っていると、アズールが振り向いてフロイドに笑い掛ける。隠れて楽しい事をしている時の顔だった。
***
重厚な表紙をぱたりと落として図鑑を閉じる。中々に興味深い内容だった。今度見かけたら採取したい植物をいくつか脳内に記録する。ちらりと目の前の硝子に目を遣る。ここに入れてやるのも悪くない。指先でつつ、と表面をなぞると跡が残った。それがまた支配欲を刺激する。
背後でもまた、ぱたりと本を閉じる音がして、それを合図に振り向く。ベッドに腰掛けたアズールと目が合う。彼は本をベッドの上に投げると、自らの隣を叩いて示す。
「ジェイド」
「はい」
呼ばれるまま、彼の隣に座る。教えられた通りに寄り添って、背中へ回された腕に体を預ける。硝子越しに熱の籠った視線を受けて、その肩に頭を乗せる。
手を握られて、少し肩が跳ねる。いつもの事だ。指を絡めるように握り直される。脇腹をなぞられて、ぞくりとする。普段通りだ。手を引かれるままに、背中からベッドに引き倒される。いつもの、事だ。いつもの?
「……あ、えっ?」
腿をするりと撫で上げられて、びくりと反応する。おかしい。一度抱いた違和感は、どんどん膨れ上がる。こんな事、初めてだ。全く普段通りではない。
慌てて手を振り解こうとするが、うまく力が入らない。ずり上がって逃げようとしても、動きが鈍くてすぐに捕らわれる。
「どうしたんですか? そんなに怯えて……」
逆光になっているアズールの顔がよく見えない。夢の中にいるかのように不明瞭だ。頭が上手く回らない。
「大丈夫。何もおかしな事なんてありませんよ。だって、"いつもの事"でしょう?」
また腕を引かれる。少し浮いた背中にもう一方の腕が差し入れられて、抱き締められるような体勢になる。どくどくと心臓が激しく脈打っている。振り払うべく力を入れた腕は押さえ込まれ、背中にびりびりと激しい電流が伝う。地面が崩される恐怖感に襲われて、本能がアズールを拒絶しようとする。
「ねぇ、ジェイド?」
耳から脳に直接注がれる声が、そんな思考を溶かしていく。震える背中を強く抱えられれば、心音が落ち着いていく。もう何に怯えていたのかも分からない。ただ、アズールの傍に居たくて、ジェイドもその背中へ腕を回した。
抱き締めるアズールの冷たい腕がシャツの下へと滑り込む。急な温度に驚いて鳥肌が立った。痛みの残る背中を撫でられて、甘い痺れが広がる。
「アズール……」
心の赴くまま名前を呼ぶ。はい、と答える声は僅かに震えていた。表情が見たくて覗き込めば、その口元は上向いていた。
硝子の向こうは、良く見えない。
***
それを見掛けたのは、本当に偶然だった。先を行くジャミルをしつこく追い掛けながら教室移動をしていた時に、曲がり角へジェイドの背中を見掛けた。たまたま用事があったアズールは、つれないクラスメイトを諦め、見間違えようもないシルエットに近づいた。
しかし、用件を告げる事は出来なかった。
「……え」
高い背を曲げ、顔を俯かせているのは遠目で分かった。近付くにつれて、嫌な予感が募るのも分かっていて、それでもどうにか傍に寄った。そして、後悔した。
キスをしている、と思った。そう頭が理解した瞬間に、全身から血の気が引いた。そんな自分の感情が、はじめは理解できなかった。
まずは嫌悪感だと思い込んで、その場はやり過ごした。足早に立ち去って、ジャミルに必要以上に絡んで鬱陶しがられながらもどうにか頭の隅に追いやった。それでも、ラウンジで彼と会えば嫌でも思い出す。あれは何ですかといっそ訊いてしまえば良かったのかもしれないが、その時のアズールは質問を口にする気力が無かった。怖いと思う自らの感情を飲み下す所が、まず出来ていなかったからだ。
それから数日経って、図書室で魔導書を読んでいた時にある項目が目に付いた。それは洗脳魔法の類で、軽度の物であれば、アズールに行使可能な術が載っていた。普段であれば、洗脳魔法と言えばジャミル、などと浮かんでいたのだろう。しかし、認識を少しずつ改変するという文言で真っ先に頭に浮かんだのはジェイドだった。
頭に浮かぶ映像に、思い出してもずくりと胸が痛んだ。そして、遂にそれが喪失感であると思い至った。大切にしていた契約書が砂になった時、あれに少し似ている気がした。
自分の物が奪われるのは我慢ならない。行動に至った理由は、言ってしまえば、たったそれだけだった。
背中に縋りついて、何度も名前を呼ぶ甘い声。全身を包む甘美な倦怠感に息を吐く。
「アズール」
「……ええ、ジェイド」
汗で額に張り付く前髪を払いのけて、応える。不安に揺れていた瞳は、今は目一杯の愛だけが詰め込まれている。
硝子越しに白い四肢が震える。手を握ってやれば、安堵の息を漏らす。それからもう一度「アズール」と呟き、首に腕を回した。啄む様に口付ける姿に、心臓が強く脈動した。また息を吐く。未だ飲み下せない感情を、熱を以て彼に伝えようとする。
もう少し、と腰を掴み直すと、息を詰めたジェイドの目が見開かれる。打ち付ける動作に合わせてびくりと体を震わせた。腰を引く度に熱を受け入れた後孔から白濁が零れる。まだ足りない。衝動のまま肩口に噛み付く。跳ねる腹を押さえ付けながら緩々と動けば、あ、と引き攣る喉から零れた音に甘さと別の響きが混じる。見れば、彼は驚嘆の表情でアズールを見上げていた。
「ア、ズール?」
声色で分かった。洗脳魔法が切れたらしい。継続させるのであれば、このタイミングで重ねるべきだ。これまでも何度かやってきた。しかし、アズールはマジカルペンには触れもせず、ただもう一度口付けた。すぐに空いた腕で押し返されて、離れる。
「これ、は」
聡明なジェイドの事だ。状況が理解できたのだろう。自分が何をされているのか、正しく理解している筈だ。それでも言及してこないのは、全力を以て逃げ出そうとしないのは、ひとえに彼の愛着なのであろう。
いつだったか、彼が言った"愛着"という言葉。それは今、アズールの抱えている物には見合わない気がした。それよりもっと、どす黒くて汚い物だ。
「いけません、こんな、事」
初めて見るような、隠せど溢れる怯えの色。手を握る腕を、他方の手が掴んだ。離せと言いたいのだろう。真摯さを演出する表情が、珍しく剥がれかけている。疑念と恐れと、その奥へ沈む期待。そこに拒絶の彩は無い。もう少し。あと少し。
灯の下に晒される肌に指を這わせる。ん、と喉奥で甘い音を飲み込んだジェイドの手から力が抜けた。するりと胸元まで滑らせ、突起を爪先で引っ掻く。
「ぁっ? 何、で……」
知覚の外で震えた体に混乱したように呟く。思考を崩す様、彼の奥を強く穿った。甘い悲鳴が脳を揺らす。うねる熱が心臓を溶かす。
獣のように貪って、瞳孔に満ちる快楽の中に未だ拒絶が映らない事に、ひどく罪悪感を抉られていく。肉体が満たされる程、心が腐っていくようだ。
首を振りながら駄目、と繰り返す愛しい声が、アズールの柔い心臓を殺していく。
「……お前は誰の物ですか」
ぎり、と手首を掴む手に力が入る。恐らく激痛に襲われたのだろうジェイドは焦燥を示す表情で身を捩る。
「答えろ、ジェイド!」
視界が曇る。ぽたぽたと墜ちる雫は硝子の向こうへ届かない。それが無性に苛立って、硝子を外して投げ捨てた。
ぼやけた視界に、瞠目する金色がやけに明瞭に見えた。それはぎゅうと細められたかと思うと、困ったように笑う表情の一部になった。
「あなたの物ですよ、ずっと」
普段よりずっと柔らかい声が鼓膜を撫でる。
ああ、まだ洗脳は終わっていなかったのか。正気でなければ意味がないのに。それでも、暖かな視線に包まれる心地を手離したくなくて、ゆったりと上下する薄い胸に額を押し当てた。
「まだそれ見てんのぉ……昨日の夜からやってんじゃん」
「違いますよ。フロイドが眠った後に一度離れて、フロイドが起きる前に始めたんです」
「どーでもいい……」
言葉通りの声を上げるフロイドにくすりと笑うと、不機嫌な鳴き声をあげながら着替え始めた。
もう一度、薄青色に光る硝子の表面を撫でる。すると、指先にビリっと刺す感触がして、反射的に手を引っ込めた。その拍子に机上のシャーレが床に落ち、派手な音を立てて割れてしまう。
「何してんの、ジェイド……」
「すみません。ちょっと静電気が」
「もー……どーせ、ちゃんと寝てないんでしょ。オレ手伝わねーから」
自業自得、と吐き捨ててフロイドは部屋を出て行く。どうも昨晩、熱中し過ぎて構えなかったのが不機嫌に繋がっているらしい。分析しながら苦笑しつつ、さっさと薄い硝子片を処理した。
その後、机に零してしまった薬品を拭き取ろうと布巾を手に取った時だった。ぐらりと眩暈がして、机に手をつき体を支える。目が回る。先程のフロイドの言葉を思い出す。寝不足だろうか。再び指先に痛みが走って、目を遣れば血が出ていた。机上に残っていた硝子片が刺さっている。
なんと不注意な日だ、と独り言ちると同時に腕の力が抜けて、膝をぶつける痛覚と共に意識を失った。
***
暖かな陽気が体中を包んでいる。うすぼんやりと開けた目には、海色の天井が映り込んでいた。感じる温度と視覚情報の相違に、少し寝惚けているジェイドは夢かと思う。体がうまく動かせないのも、頭があまり働かないのも、その思考を手伝った。
「目が覚めました?」
再び微睡に落ちようとした時、近くから聞き慣れた声がして、気だるくも首を動かす。制服を着用したアズールが、珊瑚の椅子に座り、体を捻ってジェイドの方を向いていた。薄青色の硝子が光に反射している。それが今朝の光景を想起させて、自分の身に起きた事態を思い出す。
ちりっと傷んだ指先を見れば、絆創膏が巻かれている。夢見心地は飛んでいった。
「アズール、僕は……」
「今朝、あなたに用があって部屋に寄ったんですよ。そうしたら床に倒れていたので、取り敢えず僕の部屋に運んでおきました」
少しずつ活動を始めた頭が、現在地を把握する。道理で広いベッドだ。寝心地も随分と良い。
「それはありがとうございます。ご迷惑をお掛けしたようですね」
「まあ。どうせ、夜通しテラリウムでもしていたんでしょう」
「そういう訳ではないのですが……」
兄弟と同じ事を言うアズールについ笑う。怪訝な目で見られ、すみません、と言いながら口元を隠した。本当に違うのだが、どうも二人は信じていないようだった。仕方ない奴だと呆れた顔をされてしまう。
「今だって寝惚けているじゃありませんか」
「え? いえ、先程までは確かに夢かと思っていましたが、今は目覚めていますよ」
「……本当ですか?」
静かに椅子から立ち上がったアズールがゆったりとした足取りで近寄ってくる。黙って目で追っていると、ベッドサイドに手を付いて、横たわるジェイドを見下ろした。
暫し、じ、と見つめられる。目の奥まで貫く様な視線に、居心地が悪くなる。視線を外そうとしたが、体が上手く動かなかった。硝子の向こう側に閉じ込められた青色から目が離せない。
「なるほど。確かに、そのようですね」
青色が細められると、途端に体の力が抜けた。いつの間にか緊張していたらしい。内心、首を傾げる。この見知った幼馴染相手に、緊張なんてした事はないのに。
思考に沈んで黙っていると、アズールはジェイドの脚と寄り添うような距離に腰掛けた。思わぬ体温に、驚きが顔に出る。
「どうしました? そんなに驚いた顔をして」
明らかに普段通りではない行動だった。しかし、アズールは奇妙な程に普通の顔をしている。
ぎしりとスプリングの軋む音がやけに鼓膜を揺らす。顔の真横に腕を置かれる。彼の整った顔が近付いて、避けようとした時、彼の体温に触れた脚に電流に似た痛みが走った。
「痛、……?」
痛覚と共に足元がぐらつくような不安感に襲われた。手を伸ばして脚を擦る。痛みは無かった。尚も不安が消えずに擦っていると、その手の上へアズールの薄い手が重ねられた。
「大丈夫ですか? 寝不足で不安定になっているのでは?」
眠っていたジェイドよりも少し冷たい手に撫で擦られ、不安を訴えていた胸が静まる。悔しい事に、どうも普段通りに隣接した体温に安心してしまったらしい。一つ溜息をついて、それからアズールを見上げた。
「そうかもしれません。少し、休ませて頂いてもよろしいですか?」
「ええ、いいですよ。ここの方が落ち着くでしょう」
「あまり落ち着きはしませんが、寝心地は良いですね」
手を何度も握られながら、薄れていく何かへの恐怖心に眠気を誘われる。ふわふわした寝具が全身を捕らえる様に包む。優しく髪を梳かれる感触に筋肉が弛緩するのが分かり、抵抗せず微睡に身を任せた。
結局、その日は朝までアズールの部屋で過ごしてしまったらしく、電子音によって起こされると彼の隣で目を覚ました。ジェイドより少し早く起きていたアズールは、何故かジェイドを起こさず観察していた。
寝起きで働きの悪い頭のまま、絡みつく視線を避けようと手を伸ばすと、瞼に触れた途端にまたあの電流が走った。痛みで一気に覚醒し、ベッドの上で素早くアズールから距離を置く。
「何を逃げてるんですか」
「アズール、あなた帯電してますよ」
「はあ? してませんよ。まだ寝惚けてるのか」
壁際までずり下がったジェイドを追い掛けたアズールは、痛む手を庇うように丸まったジェイドの肩に手を付く。そのまま壁に押し付けて目線を合わせた。
「……何でしょうか」
「何って、いつものですよ。ほら、さっさと目を閉じて下さい」
「いつもの……?」
疑問符を口に出せば、強く肩を握られた。普通に痛い。痛みを逃がそうと身を捩っていると、突然に思い出した。そうだ、目覚めて一番にしているあれの話だろう。
習慣を失念していたなんて、やはり寝惚けていたのかもしれない。言われるままに目を閉じる。するとごくりと何か飲み込む音が響いて、不思議に思っていると、後頭部に手が添えられた。そのまま引き寄せられて、唇に熱が触れる。それは一瞬で、小さな水音と共にすぐ離れていった。そこで目を開いて、いつものように言う。
「おはようございます、アズール」
「はい、おはようございます。ジェイド」
手が離れて解放される。満足気にベッドを降りる背中を見ながら、未だ痛む手を擦り、ジェイドも起きる事にした。
二人で部屋を出ると、すぐにばたばたと騒々しい足音が迫る。揃って視線をそちらへ向ければ、駆け寄ってくるフロイドの姿があった。
「アズール! ジェイド知らね……って、いんじゃん」
「おはようございます、フロイド」
ジェイドの姿を認めた途端に肩から力を抜いて、だらりと腕を下げた。脱力しながら「おはよ」と返すフロイドは、すっかり機嫌が変わっている。
「ふふ。何か変わった事でもありましたか?」
「いや、今まさに目の前にあんだけど?」
「……?」
「そうですか? いつも通りだと思いますけどね」
じとりと二人を見遣るフロイドに首を傾げていると、代わりにアズールが返答する。は、と気の抜けた声を発したかと思えば、怪訝な目付きになってアズールを見る。相変わらず忙しの無い情緒だ。
「アズール、何かした?」
「いえ、何も。ただ……あまり干渉されると、何かしてしまうかもしれませんねぇ」
「……いーけど、後でちゃんと返してよぉ」
なぜか機嫌の良いアズールとの応酬に、フロイドは苦虫を嚙み潰したような顔をしている。話の見えない現状に少しの不満を覚えて、疑問を告げるべく口を開こうとした。するとアズールが振り向いて、動きを止めたジェイドの手を取った。
「さあ、早く行きますよ。遅刻してしまう」
「……ああ。そうですね。行きましょう、フロイド」
一瞬だけその手を払おうとして、思い直す。いつもの事だというのに、何を動揺しているのだろう。気を取り直してフロイドに声を掛ければ、先以上に表情を崩して「あー」とひりついたような声を上げた。
「後でどーなっても、オレ、知らねーから」
やりたくない事が目の前に差し出された時の顔をしている。そう思っていると、アズールが振り向いてフロイドに笑い掛ける。隠れて楽しい事をしている時の顔だった。
***
重厚な表紙をぱたりと落として図鑑を閉じる。中々に興味深い内容だった。今度見かけたら採取したい植物をいくつか脳内に記録する。ちらりと目の前の硝子に目を遣る。ここに入れてやるのも悪くない。指先でつつ、と表面をなぞると跡が残った。それがまた支配欲を刺激する。
背後でもまた、ぱたりと本を閉じる音がして、それを合図に振り向く。ベッドに腰掛けたアズールと目が合う。彼は本をベッドの上に投げると、自らの隣を叩いて示す。
「ジェイド」
「はい」
呼ばれるまま、彼の隣に座る。教えられた通りに寄り添って、背中へ回された腕に体を預ける。硝子越しに熱の籠った視線を受けて、その肩に頭を乗せる。
手を握られて、少し肩が跳ねる。いつもの事だ。指を絡めるように握り直される。脇腹をなぞられて、ぞくりとする。普段通りだ。手を引かれるままに、背中からベッドに引き倒される。いつもの、事だ。いつもの?
「……あ、えっ?」
腿をするりと撫で上げられて、びくりと反応する。おかしい。一度抱いた違和感は、どんどん膨れ上がる。こんな事、初めてだ。全く普段通りではない。
慌てて手を振り解こうとするが、うまく力が入らない。ずり上がって逃げようとしても、動きが鈍くてすぐに捕らわれる。
「どうしたんですか? そんなに怯えて……」
逆光になっているアズールの顔がよく見えない。夢の中にいるかのように不明瞭だ。頭が上手く回らない。
「大丈夫。何もおかしな事なんてありませんよ。だって、"いつもの事"でしょう?」
また腕を引かれる。少し浮いた背中にもう一方の腕が差し入れられて、抱き締められるような体勢になる。どくどくと心臓が激しく脈打っている。振り払うべく力を入れた腕は押さえ込まれ、背中にびりびりと激しい電流が伝う。地面が崩される恐怖感に襲われて、本能がアズールを拒絶しようとする。
「ねぇ、ジェイド?」
耳から脳に直接注がれる声が、そんな思考を溶かしていく。震える背中を強く抱えられれば、心音が落ち着いていく。もう何に怯えていたのかも分からない。ただ、アズールの傍に居たくて、ジェイドもその背中へ腕を回した。
抱き締めるアズールの冷たい腕がシャツの下へと滑り込む。急な温度に驚いて鳥肌が立った。痛みの残る背中を撫でられて、甘い痺れが広がる。
「アズール……」
心の赴くまま名前を呼ぶ。はい、と答える声は僅かに震えていた。表情が見たくて覗き込めば、その口元は上向いていた。
硝子の向こうは、良く見えない。
***
それを見掛けたのは、本当に偶然だった。先を行くジャミルをしつこく追い掛けながら教室移動をしていた時に、曲がり角へジェイドの背中を見掛けた。たまたま用事があったアズールは、つれないクラスメイトを諦め、見間違えようもないシルエットに近づいた。
しかし、用件を告げる事は出来なかった。
「……え」
高い背を曲げ、顔を俯かせているのは遠目で分かった。近付くにつれて、嫌な予感が募るのも分かっていて、それでもどうにか傍に寄った。そして、後悔した。
キスをしている、と思った。そう頭が理解した瞬間に、全身から血の気が引いた。そんな自分の感情が、はじめは理解できなかった。
まずは嫌悪感だと思い込んで、その場はやり過ごした。足早に立ち去って、ジャミルに必要以上に絡んで鬱陶しがられながらもどうにか頭の隅に追いやった。それでも、ラウンジで彼と会えば嫌でも思い出す。あれは何ですかといっそ訊いてしまえば良かったのかもしれないが、その時のアズールは質問を口にする気力が無かった。怖いと思う自らの感情を飲み下す所が、まず出来ていなかったからだ。
それから数日経って、図書室で魔導書を読んでいた時にある項目が目に付いた。それは洗脳魔法の類で、軽度の物であれば、アズールに行使可能な術が載っていた。普段であれば、洗脳魔法と言えばジャミル、などと浮かんでいたのだろう。しかし、認識を少しずつ改変するという文言で真っ先に頭に浮かんだのはジェイドだった。
頭に浮かぶ映像に、思い出してもずくりと胸が痛んだ。そして、遂にそれが喪失感であると思い至った。大切にしていた契約書が砂になった時、あれに少し似ている気がした。
自分の物が奪われるのは我慢ならない。行動に至った理由は、言ってしまえば、たったそれだけだった。
背中に縋りついて、何度も名前を呼ぶ甘い声。全身を包む甘美な倦怠感に息を吐く。
「アズール」
「……ええ、ジェイド」
汗で額に張り付く前髪を払いのけて、応える。不安に揺れていた瞳は、今は目一杯の愛だけが詰め込まれている。
硝子越しに白い四肢が震える。手を握ってやれば、安堵の息を漏らす。それからもう一度「アズール」と呟き、首に腕を回した。啄む様に口付ける姿に、心臓が強く脈動した。また息を吐く。未だ飲み下せない感情を、熱を以て彼に伝えようとする。
もう少し、と腰を掴み直すと、息を詰めたジェイドの目が見開かれる。打ち付ける動作に合わせてびくりと体を震わせた。腰を引く度に熱を受け入れた後孔から白濁が零れる。まだ足りない。衝動のまま肩口に噛み付く。跳ねる腹を押さえ付けながら緩々と動けば、あ、と引き攣る喉から零れた音に甘さと別の響きが混じる。見れば、彼は驚嘆の表情でアズールを見上げていた。
「ア、ズール?」
声色で分かった。洗脳魔法が切れたらしい。継続させるのであれば、このタイミングで重ねるべきだ。これまでも何度かやってきた。しかし、アズールはマジカルペンには触れもせず、ただもう一度口付けた。すぐに空いた腕で押し返されて、離れる。
「これ、は」
聡明なジェイドの事だ。状況が理解できたのだろう。自分が何をされているのか、正しく理解している筈だ。それでも言及してこないのは、全力を以て逃げ出そうとしないのは、ひとえに彼の愛着なのであろう。
いつだったか、彼が言った"愛着"という言葉。それは今、アズールの抱えている物には見合わない気がした。それよりもっと、どす黒くて汚い物だ。
「いけません、こんな、事」
初めて見るような、隠せど溢れる怯えの色。手を握る腕を、他方の手が掴んだ。離せと言いたいのだろう。真摯さを演出する表情が、珍しく剥がれかけている。疑念と恐れと、その奥へ沈む期待。そこに拒絶の彩は無い。もう少し。あと少し。
灯の下に晒される肌に指を這わせる。ん、と喉奥で甘い音を飲み込んだジェイドの手から力が抜けた。するりと胸元まで滑らせ、突起を爪先で引っ掻く。
「ぁっ? 何、で……」
知覚の外で震えた体に混乱したように呟く。思考を崩す様、彼の奥を強く穿った。甘い悲鳴が脳を揺らす。うねる熱が心臓を溶かす。
獣のように貪って、瞳孔に満ちる快楽の中に未だ拒絶が映らない事に、ひどく罪悪感を抉られていく。肉体が満たされる程、心が腐っていくようだ。
首を振りながら駄目、と繰り返す愛しい声が、アズールの柔い心臓を殺していく。
「……お前は誰の物ですか」
ぎり、と手首を掴む手に力が入る。恐らく激痛に襲われたのだろうジェイドは焦燥を示す表情で身を捩る。
「答えろ、ジェイド!」
視界が曇る。ぽたぽたと墜ちる雫は硝子の向こうへ届かない。それが無性に苛立って、硝子を外して投げ捨てた。
ぼやけた視界に、瞠目する金色がやけに明瞭に見えた。それはぎゅうと細められたかと思うと、困ったように笑う表情の一部になった。
「あなたの物ですよ、ずっと」
普段よりずっと柔らかい声が鼓膜を撫でる。
ああ、まだ洗脳は終わっていなかったのか。正気でなければ意味がないのに。それでも、暖かな視線に包まれる心地を手離したくなくて、ゆったりと上下する薄い胸に額を押し当てた。