爪切りと依存心/爪研ぎと独占心【R18】

アズールがジェイドの爪を切る話。
後半が成人向け描写を含みます。





 銀の刃が、生き物の口のように開閉を繰り返す。その度にぱちん、ぱちんと音がして、指先に纏う殻か鱗に似た器官を切り落とす。ジェイドしかおらず音一つない部屋には、決して小さくないその音はよく響いた。
 人間というのはつくづく面倒に出来ている。この爪というのもそうだ。切らなければ伸び、用途もない武器は不用意に周囲と自分を傷つける危険因子となり得る。ならば初めから無ければいいのにと思わなくもない。綺麗な弧を形成しながら、海に居た頃のそれを思い出す。切り裂き傷付けることに特化した、言葉通りの武器は、研ぐ必要はあれど切ることはまず無かった。
 ああでも、そういえば一度だけ無くなった事があったな、と回想する。岩肌に爪を引っ掛けて、根元から折れてしまったのだった。確かその時は鮫から逃げていて、突き刺さった鋭い爪を引き抜くよりも手折る方が最善と判断を下した故の怪我だった気がする。思わず爪を切る手を止め、摩る。結構痛かった覚えが未だに残っている。
 爪切りをポケットに仕舞い、部屋を出る。あの日、まず折れた爪を見たフロイドが慌てて握り潰して血を無理やり止められた。近くに鮫が居たのだから間違いなく正しい判断だった。結局酷くなった怪我を両親に見せようとしたのだが、仕事の用で家を空けていた事を思い出し、そこから真っ先に向かったのは彼の元だった。
「はい。どうぞ」
 慣れた足で、考え事の最中にもノックをしていた。これまた慣れた認可の声を受けると同時に扉を開ける。机に向かった状態で返答をしたのであろう彼が、ペンの墨を適当に落として体を捻る。あまり感慨の見えない空色の目は、同じく色を見せないジェイドを映している。
 この目が、泣きそうに歪んだのを覚えている。痛みと同等に、鮮明な記憶だ。血を流し潰れたジェイドの指先に涙を零しながら、必死で治癒魔法を掛けてくれたのを覚えている。
「……何です?」
 だからなんだ、とは自分でも思う。それは今、ここにやって来た理由にはなり得ない。ポケットから銀の爪切りを取り出して、無遠慮にアズールの傍へ歩み寄る。怪訝な目がジェイドを見上げる。その目の前に、爪切りを差し出した。
「お願いします」
「は? ……まだ切れないのか?」
「怖くなってしまって」
 半分は本当だ。するとアズールは苦々しげに眉を下げる。あの日と同じ顔だと思うと、少しだけ懐かしくなる。
 まだ稚魚の範囲にあったジェイド(とフロイド)は、あれから暫く爪の手入れを恐れる様になっていた。そこは流石に両親にしてもらっていたが、たまに、ジェイドが一人の時などはこうしてアズールに道具を手渡すことがあった。今のように付け足しで何も言わなくとも、聡明で慈悲深いこの人魚は――
「ほら……さっさとしなさい」
 と、結局はぶっきらぼうに手を差し出して来るのだ。そこに自らの切り終えなかった手を乗せる。生き物の口に似たそれが、ジェイドの爪を齧り取る。ぱちん、ぱちん、と小気味良い音がする。目を伏せて一心にジェイドの爪を切るアズールを、頭上から見下ろした。綺麗な旋毛を黙って見ていると、優しく皮膚を撫でられる感触がした。手元を見れば、アズールの手があやす様にジェイドの指と爪の間を撫でていた。擽ったく思い身を捩ると、彼は顔を上げた。そして、冷たい空の色にどきりとする。
「どのくらいの頻度で切ってますか」
「ええと……一週間程度でしょうか」
「分かりました。では、また来週も同じ時間に」
 ぽんぽん、と幼児を撫でる手つきでジェイドの爪を摩った。思わず聞き返そうとしたが、伏せられた空色に言葉を呑んだ。
 ぱちん、ぱちん、と音だけが響いている。稚魚ではないのだし、今更一度の大怪我くらいでトラウマになどならない。ここに来たのも、言ってしまえば気紛れの類だ。あの目が、またジェイドだけを見て、その手をかけてくれたなら、なんて願っただけだ。
 長い指が切り揃えた爪先の弧をなぞる。自分で切るより綺麗に見えるのは欲目だろうか。満足気にジェイドの手を眺めている彼に心の奥底がむずがっている。
「僕が、してあげますから」
 ちらと不意に彼が視線を上げた。その目は、幼くも縋るジェイドの影を写しているように思えた。


 ◆◆


 シーツに投げ出された白い手に指を掛ける。するりと指の腹で手首を押し撫でると、血管が脈動を伝えて来た。掌を合わせる。やはりジェイドの方が少し大きい。さして変わりないと毎度強がりで口にはするが、惜しいと思う時もある。例えば、今のような情事の際など。
「……っはぁ」
 腰を押し付けると吐息を漏らし、触れていた指を曲げてアズールの手のひらを引っ掻いた。かり、と微かな感触と共に、甘い感覚が皮膚に残る。折り畳まれた指をこれ幸いと手で包み、上から握る。綺麗に手の中に収まった拳を何度も握る。擽ったいのか、指が開こうと動く。少し力を緩めたら這い出て来た指の間に自らの指を滑り込ませる。
「アズ、ル、何をして……いるんですか?」
「ああ、失礼しました。我ながら綺麗に整えた物だと思って」
 軽く爪を撫でながら、止まっていた動きを再開する。腰を臀へ押し付ける度に控えめな水音が鳴ると共に、苦しげな呼吸をしながら抑えた声を上げる。固く閉じた唇に指を掛け、柔らかいその隙間に入れる。固く閉じた歯を軽く叩くと、顔を顰めて口を開ける。鋭い歯列をなぞりながら、口腔内に滑り入れて舌を押す。
「やめ……は、あっ」
「声を出した方が気持ち良いですよ」
「ん、んう」
 今度は喉で声を押さえ付け始めた。その強情さに呆れつつ、ぐ、と舌を引っ張り出す。同時に奥の柔い箇所を穿ったら、大きく身体を震わせた。
「うあ、あ、んぐっ」
半ば苦悶に呻くかのような声を出しながら、彼の空いた長い腕がアズールの背中に縋り付く。かり、と皮膚を円い指先が引っ掻いた。爪を立てても、無害に研がれたそれでは傷一つ付けられない。自らの口元が半月を描くのが見ずとも分かる。武器としての機能を失った爪が必死に背中に突き刺さろうとする。柔らかい指先が無力に皮膚を押すだけだ。
「ん、ん、ぅあっ」
 重ねていた手をぎゅうと握り、片手で腰を掴む。緩い動作でジェイドの好きな所をとんとん、と優しく叩いて刺激すると、更に爪が立てられる。

 幼い頃、一度だけ爪を失った人魚を見た。彼は血塗れの手をアズールに渡しては、痛みを堪えて『お願いします』と縋ってきたのだ。隣でソワソワと覗き込む彼の兄弟が不安気にアズールを見詰めてきた事もあり、当時は動揺が色濃かった。普段から絶対的強者の風体を以て自由に泳ぎ回る双子のウツボが、不安に揺れる目でアズールを頼っているという状況は、幼いアズールに最悪の事態を想定させた。泣き虫だったアズールはその性質のままの情動を示した覚えがある。
覚えたての魔法を使い必死で治療をした後、剥き出しになった指先を見て、不便だろうと単純な親切心から形を整えてやった。ついでに同じ事が起きないように、鋭い爪先を適当なヤスリで研いで円くした。害の無くなった片手を物珍し気に触るジェイドに、そこで決して感じるべきではない感慨を抱いた記憶が残っている。

 仰け反る首筋に吸い付くと、細い喉が跳ねた。空気の抜ける音がそこから鳴る。故郷の発声に似ていた。
「アズ、っアズール、ぁ、」
は、は、と急いた呼吸の合間に名前を呼ばれ、顔を覗き「何ですか」と返答をしてやる。握った手に力が入れられて、手の甲を引っ掻く仕草をした。先を求める瞳に急かされたので、ごつん、と突き当たりの壁を叩いたら背中が浮いた。そこに腕を差し入れて引き寄せる。背中に傷を付けようともがく腕が、殊更強くアズールの背を抱く。
大抵の事では乱さない情動を、アズールの前でだけ。その事が酷く心を満足させる。だから、この行為を好んでいた。快楽など追う必要は特になくても、この声だけで満たされる。それと同じ事だった。失くした凶暴さをアズールにだけ明け透けに手渡して来たのも、何事もさらりとこなしてしまう男が『怖くて出来ない』と縋ってくるのも。
 自ら切り揃えた二人分の爪を見る。アズールの爪よりもジェイドの爪を執拗に円く調整している事を彼は気付くだろうか。かり、とまた円形の鱗が背を引っ掻いた。苦痛を伴わぬ涙を張った瞳を見るに、未だアズールの抱く邪な考えは透けていない気がする。再度手に握り直して爪を撫でる。緩やかに引いた腰を打ち付けると、結合部がぐちゅりと音を鳴らした。背後の方から布擦れの音が聞こえた。ジェイドの足の爪先がシーツを手繰っているのだろう。もう一度、大きく腰を引いた。
「あ、だめ、もう」
「いいですよ。イって」
 とん、とん、と優しく奥を突く。ぎゅうと閉じた瞼から遂に涙が溢れ、びくりと体を震わせて白濁を吐き出した。強い締め付けにアズールも熱を解放する。爪の間を撫でると、また震えた。
「来週、忘れないようにして下さいよ」
 赤くなった額にキスを落とす。すると二色の双眸は細められ、がりっ、と背中に痛みが走った。眉を顰めているアズールの眼前に手を差し出す。整った爪の間に、赤い皮膚が詰まっていた。思わず笑いが溢れる。
「貴方の為にも、毎週、お願いしますね」
 凶暴な手を取ってシーツに押し付ける。返答の代わりに、してやったりと見透かして笑う唇に噛みついた。