冷戦デート (3/8)



 目的地は然程遠くなく、歩いて行ける距離だった。画面に時折目を落としつつ、ジェイドの手を引いて大通りを抜け、小さな水族館へ到着する。入場前にホームページで情報を確認してみる。変わった展示は特に無いものの、深海生物をウリにしているらしかった。
「故郷を思い出せるかもしれませんね」
 横から画面を覗き込んで、ジェイドはそんな風に笑った。実際、文字として羅列されているラインナップは北の海に棲む生き物が多く、彼の言葉通りになりそうだった。捕らわれた同郷の生物を眺める娯楽で楽しめるとは思えないが、一度決めた事は仕方がない。それに人間同士のデートであれば別であろう。無意味さを拭いきれないまま、受付で二人分のチケットを購入した。
 エントランスホールを抜けてすぐ、壁に設営された水槽の中でのっそりと歩むカメがいた。ガラスの狭い世界をのんびりと、意にも介さず歩く姿に拍子抜けする。もっと悲惨な思いをするかと想像をしていた。存外快適そうにうろつくカメをジェイドも見つけて、「おや」と笑む。
「ウミガメさんではありませんか。こんな所でお会いするとは」
「……本人の前で言うんじゃありませんよ」
「もちろん言いません。ほんの戯れですから」
 にこりと歯を隠して微笑んだ。改めてカメの方を見ると、その図太い精神性やマイペースな様が、どこか別寮の先輩を彷彿とさせた。思わず笑ってしまう前に視線を逸らしたがジェイドには気付かれたらしい。楽しそうにアズールの顔を覗き込む。
「ほら、次に行きますよ、次! 後ろがつっかえますから」
「ふふ……承知いたしました」
 幸いにも繋いだままであった手で腕を手綱の如く引っ張って、次の水槽へ歩みを進めた。カエルの泳ぐ水槽、ウーパールーパーの眠る水槽、と両生類のコーナーが続く。先に進みたい客達に急かされるように、立ち止まらずに目だけ向ける。そして最初の廊下を抜け、開けた場所に出ると大きな水槽が置かれていた。筒状になった水槽の中で、イワシが群れを成して回転している。
「懐かしい……」
「ええ。僕も昔、良く観察に行きました」
 思わず零れた言葉に、ジェイドもすぐ頷いた。幼い頃は周囲の魚たちの取る不可解な行動に尽きない興味があったものだ。それはジェイドも同じであったらしい。しかし、今の一言で『僕も』と言えるジェイドの鋭さには感心と同時にひやりとする。
「おや。こんなところにカフェテリアがありますよ」
 ふとジェイドが水槽から離れたエリアを指差した。そちらを見ると、こじんまりとした空間にカフェテリアが設営されていた。
「なるほど、人の集まる水槽の傍に」
「集まり過ぎない場所であるのもポイントでしょうか」
「そういう見方も出来ますね」
 遠巻きに中を覗き込みながら考察を交わす。そこで、プランの中に書き込んだランチについて思い出す。
 ――デートプラン、その四。お洒落なカフェテリアでランチをとる。
 時計を確認すれば、もうすぐ正午がやってくる。店内は少しずつ客足が増えていた。今を逃せば、暫く空かないだろうことは簡単に想像が付いた。
「丁度良いですし、ここでランチにしましょう」
「はい。そろそろお腹が空いてきたところなのでありがたいです」
 本気か社交辞令か分からない事を言い、ジェイドはアズールの手を引こうとした。咄嗟にアズールはそれを引き留め、彼より一歩前へ出て手を引いた。変なプライドだった。ジェイドはくすくす笑い、大人しく従った。
 店内は既に賑やかであったが、空席があったようですぐに席へ案内される。簡素に水を置き、店員が去っていく。木製の机の上には小さなメニューが一枚と、魚を模したイラストの描かれた呼び出しボタンがある。モストロ・ラウンジと比較してもかなり質素で簡単な作りだなと観察する。
「見て下さい、魚料理がありますよ」
「うわっ……人間は残酷な事を考えますねえ」
「ですねえ」
 いくつかの文句を付けながらメニュー表を二人で覗き込む。オムライスやカレーなど、よくあるメニューばかりだ。しかし、いくつか水槽をイメージしたコンセプトメニューも存在していた。研究のためにも、と二人はそれぞれにコンセプトメニューを注文する。
「注文は以上でよろしいですか?」
「はい」
「あ、ちょっと待って下さい。こちらもお願いします」
「……あっ。かしこまりました」
 注文を終えようとしたところをジェイドが追加で指を差す。不足だと考えたのだろうと思っていたアズールは、店員の慌てた反応に内心で不思議がる。店員は一度咳払いをして、書き込んだ注文を読み上げる。
「深海魚のステーキがお一つ、サンゴ礁のサラダセットがお一つ、イルカのラブラブドリンクがお一つ……」
 以上で、と今度こそジェイドが頷くと、店員は去っていく。その傍らでアズールは瞠目してジェイドを見ていた。その視線に気が付いて、ジェイドはにこりと笑う。
「デートプランに追加しましょう。『カップル限定メニューを注文する』と」
「なっ……にを勝手に注文して! 絶対に勘違いされただろう!」
「まあまあ、これは偵察なんです。楽しんだもの勝ちですよ」
 上機嫌にメニュー表を眺めるジェイドに開いた口が塞がらない。憂慮していた事態はまだ続いているらしい。恐ろしい心地で揺れるターコイズブルーの旋毛を睨みつけた。

 すぐに注文した料理は運ばれてきた。深海魚――を模した魚肉のステーキ、サンゴ礁――をイメージした海藻のサラダ、そして番のイルカをイメージしたサイダー。小さな机に並べられたそれらは、最後の一品の衝撃が大きすぎて当初の目的を思考が外れていく。
「では、いただきます」
「……いただきます」
 行儀よく手を合わせてナイフとフォークを手に取ったジェイドに続き、アズールもしぶしぶ手を合わせる。机の真ん中に鎮座する、可愛らしいイルカのフィギュアが気になって仕方がない。取り敢えずサラダを食べた感想は、中身は凝っていなくても外見さえ面白ければメニューとして優秀と言えるのだな、というものだった。要するに味は普通だった。ジェイドの方を見れば、魚肉ステーキを咀嚼しながら、眉を下げて微笑んでいた。間違いなく同じ感想だ。
 ほぼ同時に食べ終えて、ナプキンで口元を拭う。そして、中心で未だキスを披露するイルカのフィギュアが突き刺さったストローに目が行った。最たる問題はイルカではない。ストローの形状だった。飲み口は二つ、イルカ達から飛び出している。それを囲むようにハートマークを形成したその先、吸い上げ口は一つに収束している。
「……どうしろと?」
「両側から同時に飲むのでは?」
「そうでしょうね……!」
「とりあえず、試してみましょうか」
 困惑して身を退くアズールを見つめながら、ジェイドはストローの一方に指を絡める。近付けていく唇に思わず視線が釘づけられる。ストローの先に触れる直前で、彼の瞳が上目遣いにアズールを向く。
「あざとっ……」
 無意識に発した胸中に、ジェイドが目を瞬かせた。
「飲まないのなら、一人でいただきましょうか」
 何事も無かったかのように言うと、彼の唇がストローを挟んだ。ちゅう、と水色のサイダーが吸い込まれていく。正直なところ、周囲の目線があまりにも気になった。それ以上に、ここでもし実際に一緒に飲んで、拒絶されるのが嫌で堪らなかった。
「……アズール。これは偵察ですよ」
「分かってますよ……!」
「せっかくカップルメニューを注文したのに一人で飲むだなんて……寂しいです。しくしく」
「……あああ、もう! うるさいな!」
 机に置かれていたジェイドの手を抓る。下手な泣き真似はそこで終わり、逆の手で後頭部を引き寄せた。触れた瞬間に抓った手がびくりと反応したのが分かったが、言い出したのはジェイドだ、と何度も唱えて平静を保った。
 アズールがストローを口に含めば、間近にあるジェイドの瞳孔が開くのが分かった。羞恥心で爆発しそうな心臓を抱えたまま、どうにか耐えて待っていると、ジェイドもようやくストローを食む。ここまで近くで彼の目を見たのは初めてだった。心拍が随分早くなって、焦ったアズールは思いきりサイダーを吸い込んで、空気が圧迫されてジェイドの方へ飛び出した。
「あっ、すみません」
 素早く口を離したジェイドは何度か咳をして、謝ったアズールを見て笑った。
「ふっ、ふふ、まさか同時に飲ませて頂けないなんて思いませんでした、ふふふっ」
「悪かったと言ってるでしょう……」
「いいえ、貴方といると楽しいと言っているのです」
 また適当に言っているな、と思いながら顔を見れば、言葉通りの表情を浮かべていてどきりとした。