冷戦デート (5/8)



 遂に最寄りのバス停に停車して、緊張の面持ちを隠しきれずに降車する。ホテルが立ち並ぶ通りは正に目の前だった。
「こちらですね。写真の通り、立派な街並みです」
 緊張に張り詰めたアズールと違い、ジェイドは期待の目で背の高い建物群を見上げる。その稚拙な様子に、少しずつ緊張が解けていく。大丈夫、どうせ何も起こらない。ほとんど自分に言い聞かせながら、覗き込まれる前にその手を取って引っ張った。笑うような息遣いは聞こえない振りをする。
 表通りから外れた細い路地を抜けていく。事前のリサーチで見つけたホテルは、寂れた通りの中に堂々と建っていた。調査の通りに立地、時期ともに条件が良かったらしく、立派な外観と内装に対して随分と空いており、すんなり宿泊が決まる。
 余計な事を言われないよう、ジェイドはロビーまで下がらせて部屋希望を告げる。おかげで予定通りにツインの部屋を取って、鍵を受け取った。
 二人で半透明な鍵を物珍しく見ながら、部屋番号を確認する。
「704号室……割と上階ですね」
「この高さでは夜景は難しいかと思いましたが、これならいい景色が見られそうです。見て見ましょうか」
「その前にディナーですよ」
 どこか急いた様子のジェイドを窘めると、「そうでしたね」と微笑んで見せる。そうして手を後ろ側で組んだ彼の仕草に違和感を覚えた。眉根を寄せてジェイドの表情を観察するも、貼り付いた微笑は動かない。もしかして、ジェイドも緊張しているのではないかと一瞬考えたが、この笑みを見ていると馬鹿らしい考えに思えてきた。
「レストランの階数を調べてきますので、少々お待ち下さい」
「……ええ、頼みましたよ」
 普段通りの会釈を披露してフロントまで歩いていく背中に、こっそりと溜息を吐いた。

 慣れないエレベーターで運ばれて、二階で降りる。二人だけ居た同乗者も同じくレストランが目的のようで、同時に降りた。
 目的のレストランには、そう大きくもない建物内ではすぐに辿り着いた。かなりシンプルな内装だが雰囲気は悪くない。しかもビュッフェスタイルで気軽なのも学生としては良い。
「食堂のようで、何だか安心感がありますね」
「レストランに対する評価ですか? まあ、ウチは特殊ですからね……」
 言葉の通りに緊張感を無くしたジェイドは手慣れた様子でトレーに皿を置いた。綺麗に並んだ料理の前に立って、どれを皿の中へ乗せようか吟味している。少し遠出して、しかもホテルのレストランに居ると言うのに、本当に昼の食堂に居る気分になってしまう。
 仕方ないと諦め、アズールも彼の後に続く。それから適当に食事を盛ろうとして、想像していた以上に豪華な内容に目を瞠る。どうやら食事が良いという評判は間違っていなかったようだ。空腹を唆す香りを楽しみながら、今後のメニューへ参考になりそうな物を探した。
 興味のある料理を粗方盛り付けてから周囲を探すと、窓際の席に目当ての人物の待つ姿が見えた。こうして遠目で見ると、すらりと伸びた手足を行儀良くまとめている長身は改めて目立つ。窓の外を熱心に見つめる横顔は、精悍であるのに幼稚で、見る者を惹き付ける魔力があった。最後にドリンクを取る事にして、一度その姿から視線を外す。
 ガラスのコップにフルーツ入りのミネラルウォーターを注いでいると、不意に、静かな喧騒から言葉を聞き取った。『格好良い』と呟かれた言葉に、わざと逸らしていた意識が窓際に戻っていく。声の主はほど近い席に居て、少し振り向けば、彼女が誰を見てそんな戯言を宣ったのかすぐに理解する。
 ああ、そうですね。その通りだ。内心で悪態を吐いた。あの幼馴染は、外観だけは良いものだから、見ず知らずの相手から良く好意的な視線を受ける。その内面を知ってしまえば、手のひらを返して逃げ帰る癖に。
 水を汲み終えたコップをトレーに乗せる。震えそうになる腕を無理に動かしたからか、少し大きな音が立つ。周りから受けた視線は無視をして、窓際を睨みつける。相変わらず、何が楽しいのか窓の外を眺めていた後頭部が、視線に気が付いて振り向いた。油断すれば大股になりそうな気持を制し、普段通りに歩幅を調節して、手を上げた彼の元へ歩いた。
「アズール、見て下さい」
 トレーを置くなり、その手が窓の外を指す。一旦、揮おうとした言葉の刃を引っ込めて言われるままに外を見る。彼の指先が示すのは、随分綺麗な星空だった。
「都会では空気や街灯が邪魔をして綺麗に見えないものだと聞いていましたが、想像より綺麗で驚きました」
「……そうですね。僕も綺麗だと思いますよ」
「そうでしょう? ふふ……もちろん山から見える星空には及びませんが」
 また窓の外に視線が戻っていく。反射する蛍光灯に負けない輝きを放つ星に、彼の抱える好奇心がそそられているのだろう。その瞳に反射する星空は、確かに随分と美しい。呼びかけようとした口が自然と閉じる。
 机の上に放置された彼の白い手の甲に、そっと触れる。微かに温くなった体温は、海の中では感じられなかった彼の温度だった。指を絡めて握ると、ジェイドが目を丸くしてアズールの方を見た。
「ふふふ……僕が空ばかり見ていたせいで、寂しくなってしまいましたか?」
 ちらと視線を横に向ける。先程からジェイドに視線を送り続けていた客が驚いた様子で二人を見ている。内心で馬鹿にして、笑った。握った手を少し持ち上げると、手首を飾るお揃いのブレスレットが揺れて音を鳴らした。
「そうですよ」
「……え?」
「あなたは、僕の恋人なんですから」
 細やかな喧騒が鎮まって、煩わしかった視線がようやく離れる。こんな、人の恋心を弄んで笑う男なんてその手には余り過ぎる。逃げたいのか引こうとする手を机に押し付け、恋人のように握った。同時に彼の白い喉が上下する。その顔は少し俯いていた。
「今更、緊張でもしてるんですか?」
「いえ。よく恥ずかしげもなく、こんな場所で演技できるものだと感心していました」
 ゆるく微笑んだ表情に、思わず笑い出しそうになって頬を噛んだ。赤くなった顔を隠すように、彼はまた空を見る。年単位の付き合いで、見た事もない表情だった。余裕の装甲が崩れた事で、アズールの中で蟠っていた感情がようやく処理される。やはりジェイドも緊張していたのだと確信を得て、今度こそ勝ち誇った笑顔を浮かべた。