冷戦デート (6/8)



 それなりの量で食事を終えて、再びエレベーターに乗り込む。明らかに歩幅の小さくなったジェイドの手を引き摺って乗った二人だけのエレベーターは、随分と静かだった。電子板が現在の階数を上へ更新していくのを見上げながら、バクバクと心音が大きくなるのを感じていた。血管から伝わりやしないかと不安に思いながらも、逃げられないように手だけは繋いだままにした。横目で見たジェイドは、押し黙って自らのつま先を見つめていた。
 ――デートプラン、その七。夜景を見る。
 波打つ心臓を落ち着かせようと次のプランを何度も唱える。賢者の島は開発が進んでいるとはいえ、美しい夜景やイルミネーションの類は多くない。外に出ても人間は寒いだけになるだろうと考え、ホテルの窓から空や街灯でそれらしい雰囲気を演出させるという計画だった。
 つまり、ここからはホテルの部屋で二人きりになる。
 五階、六階、と見えた所で握っていた手がぎゅうと握り返された。誘導されるがままにジェイドの方を見ると、じっと見詰めている瞳とかち合った。
「……なん、ですか」
 鼓動がひどくて声が詰まる。まるで金縛りに遭ったように、指先ひとつも動かせない。ジェイドの金色が、アズールのひどく緊張した面持ちを映していた。その唇が薄く開いて、何か言葉を紡ごうとして、小さな息が零れた。
 それを掻き消すような音声が響き、軽く足元に衝撃が訪れる。七階の表示と共にドアが開くと、ジェイドの目がそちらへ向いた。同時に固まっていた身体も解けて、縺れるままエレベーターを降りた。
 そこからまた黙って、部屋を探す。本格的に妙な雰囲気になってきている。握る手は汗ばんでいて、今更に恥ずかしくなってきていた。さっさと部屋を探して入っても展開が進むだけだし、このまま彷徨っていても緊張感が続くだけだ。
 こうして、ずっとぐるぐる考え続けているのも、全てはジェイドの腹の中が分からないせいだ。ジェイドは黙っているが、目を合わせればいつものように微笑んでいる。緊張はそこから見て取れても、その真意が読めなかった。
 別に、嫌われているとは思っていない。だからといって、好かれているとも思っていなかった。自分と同じ気持ちで緊張していると思わないわけではないが、アズールを揶揄う事に心血を注ぐような真似も平気で出来てしまうと知っているからこそ躊躇っていた。この感情に関してだけは、絶対に揶揄われて娯楽消費されてしまう事が耐えられない。だからこそ、後者であれば一生知られたくない。
「……アズール」
 突然、名前を呼ばれて大袈裟に肩が飛び跳ねる。思考を中断してジェイドの方を睨むと、いつもの困り顔を浮かべていた。彼の指先には、704号室のプレートがあった。

 扉を開けて、壁に設置されたポケットに鍵を入れると明かりが点いた。急に明るくなった部屋に眩んで目を細める。部屋に足を踏み入れてみると、写真で見た通りに簡素で、清潔な室内だった。二つ並んだベッドと、大きな窓が印象的だ。窓の傍にはテーブルと椅子が用意されている。夜景を見るにはぴったりのインテリアである。
「とても良い部屋ですね。これなら依頼人も喜ばれるのではありませんか?」
 後に続いて入室したジェイドがアズールを追い越して、今しがた観察していた椅子に座る。白いカーテンを捲って、窓の外を見始めた。あの雰囲気をまるで無視した自由な行動に溜息を零しつつ、アズールも向かい側の椅子に腰かけた。
 窓の外に視線を遣る。レストランで観たのと同じ、綺麗な星空があった。階数も上がったおかげで、先程よりもより綺麗に見える。下の方を見れば、ぽつぽつと点灯した街灯や建物の灯りがイルミネーションになって、意外と美しい。
「良いですね。景色も悪くない」
「……ああ、ほら。月も綺麗ですよ」
「本当ですね」
 窓に触れた指が煌煌と輝く月を指した。そしてふと、また疑問に思う。空を観察する時のジェイドは、いつも無口だ。空だけでなく、興味を抱き熱中すると静かになる。何となく、珍しいと思った理由が分かって、首を傾げた。都会で見る綺麗な星空に、ジェイドが興味を持たない理由はなんだ。思わず見詰めていたら、ジェイドがアズールを見る。
「……あ」
「……? なんです」
 目が合ったと思ったら、すぐにその視線が下へ逸れた。口角だけは上がったままで、また緊張した顔になる。怪訝に思い、顔を覗き込もうとしたら、途端に珍しかった表情は消えた。にこりと満面の笑みを浮かべたジェイドが、不用意に近づいたアズールの頬に手を当てる。
「う、わっ!?」
「ふふ、アズール。逃げないで」
 驚いて身を退いた。ジェイドはそれを追い掛けるように身を乗り出して、両手でアズールの頬を包み込む。不気味な程に笑顔を貼り付けて、じっと目を合わせてきた。じっとりと両手に汗が滲み、心臓が暴れ出す。これはまずい。鎮めようにも、心音の鎮め方など知らなかった。
「これはシミュレーションですよ」
「シ、ミュレー、ション? な、何の?」
 ゆっくり近付く顔がスローモーションのようだ。呆けている内に、気が付けばこつんと額がぶつかっていた。
「――好きです、アズール。貴方の事が」
 甘い、融ける声色が脳味噌に染み込む。茹だってしまった頭は、まともな言葉を返せなかった。ただ間抜けに口を開けて、間近にある二色の宝石を見つめた。ゆるりとその宝石は細くなった。頬に添えられていた右手が首筋に触れる。また、指先が固まってしまう。
「ずっと、貴方が欲しかった……」
 熱の籠る黄金色から目が離せない。そんな甘言はどうせ冗談だと分かっているのに、泣きたくなるほど、心は歓喜してしまっていた。するりと指が絡められる。顔に血が集まるのを感じ、レストランでの行動をやっと申し訳なく思う。これは恥ずかしい。気が無くても恥ずかしいだろう。
「ねえ、アズール」
「……は、い?」
 短い返事でさえも途切れてしまう。からからの喉が唾を飲み込んでごくりと音を鳴らす。彼の、捕食者の目が、柔らかく歪んだ。
「抱いて下さい、僕の事」
 息が止まる。開いた瞳孔で彼の目を覗いても、そこに好奇以上の感情が見えない。その笑顔の裏に何があるのか、見えないのはいつもの事だ。しかし、今日ばかりは駄目だった。
 動かなかった筈の身体は指先から熱を取り戻して、その肩を思いきり掴んだ。引き剥がしたら微かに笑う気配がする。
「なんて、冗談――」
「分かりました」
 離したままに椅子へ戻ろうとするその腕を追い掛けて掴む。必要以上の力が籠った自覚はあるが、罪悪感など微塵も湧かなかった。無理に引っ張ると、やっとジェイドの体勢が崩れた。機を逃さずに引き摺り、近い方のベッドへ投げ飛ばした。彼の長身を受け止めたスプリングが軋み、長い手足はバウンドする。その上に乗り上がり、素早く起き上がろうとする肩を押し付ける。逃れようと身を捩って腕を掴み返してくるのをどうにか制して、邪魔な眼鏡を振り落とした。
「僕もずっと、お前が欲しかったんです。お前の事が好きだから」
「あ……アズール、それは」
「ええ、もちろん"冗談"ですよ。当たり前じゃないですか」
 悪くなった視界で顔を寄せると、いつになく狼狽えた表情が見えて愉快な心持になった。それでも、一度浮かんだ怒りとは、なかなか拭えるものではない。
「でも、これは検証ですからね。一夜を過ごした場合、どうなるのか試す必要はありますよね? そういう意味で、お前もああ言ったのでしょう?」
「そんなつもりでは……ただ、僕は……」
 言い訳を続ける顎を掴んで上げさせる。もう隠しようもないくらいには、その顔も赤くなっているのは分かった。それでも、未だに心象が読めない瞳が苛立ちを増幅させる。感情のままに、言葉を続けようとする唇にかみついた。びくりとジェイドの肩が震えて、腕を掴んでいた手の力が強くなる。見開いていた目は、徐々に諦めたように静かに閉じられた。